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2001 千葉大学3年 ブログトップ
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人の目を気にすること・2 [2001 千葉大学3年]

『人の目を気にすること』
終戦直後こんな批判が新聞に載ったそうだ。「日本男児として実に情けない。戦争に負けたとはいえ、プライドを捨ててはいけない」と。電車のホームに人目をはばからずに座り込む男性に対してである。食糧難と栄養失調が理由であるが。それに比べ、現代は電車の中で化粧をしたり、地べたに座って大声で話したりする時代である。この物が溢れている時代にである。貧しすぎても豊かすぎても人は他人の視線を気にしなくなるそうである。富裕層や貧困層では競争などする必要などないからである。

・・・現代にはあてはまらないような気がするんだけど。化粧とかしてる人もいるし、地べたに座ったりするやつもいることはいるけど、なんか限られてると思う。これらの行動にそれほどの社会的認知がなされていないと思ってるし。豊かになって社会的規範が無くなったのも一つの理由だとは思うけど。


反社会的行動について [2001 千葉大学3年]

『マチュレーションギャップ』

「生物学的には大人であっても、社会的には半人前とみなされ、大人には許される多くの魅力的誘因(バイクや自動車の運転・飲酒・喫煙・性行為・金銭消費・生活の自由など)を剥奪されている。→ここから反社会的行動にかりたてられる。」

そしたら、「魅力的誘因」に対して自分の責任において行動を起こせるように教育を改革したらどうかと思う。もちろん全部とは言わないけど。宮台真司が言ってたことはこのことなんだろうと思う。

『マチュレーションギャップ』2

「高校を出て就職したり大学生になると、青年達は大人として扱われるようになり、それまで剥奪されていた活動の多くが合法的に可能になる。職場や大学で堅実に努力し、人々との間で信頼関係を形成することが将来の大きな社会的報酬(結婚や社会的地位の獲得)や経済的報酬と結びついていることを悟る。ここから、反社会的な行動は将来の成功を台なしにする危険な行為と感じられるようになる。さらに、法的罰もさることながら、家族や友人、同僚から嫌われたり信用を失うといったインフォーマルな罰も回避すべきとされるようになる。だが、これらの信頼関係と合法的生活を維持するためには、社会的スキルや学業的基盤が必要となる。一方、反社会性タイプの人間は、高校中退などで学業的ハンデを負っていたり、反社会的評判により生産的な社会関係から排除されたりして、合法的領域での成功を閉ざされる一方、反社会的集団への関与が深まることで文字どおり「生涯型」の反社会的な生活スタイルをとるようになる。」

「能力が低いから」という理由すべてを片付けたくない。そしたら、問題行動には何も対策をたてられなくなる気がするから。一人の教育を学ぶものとして、何かオレにもできることがあると信じたい。


母親の崩壊 [2001 千葉大学3年]

『虐待という言葉によって、親が子どもに抱く否定的な感情を表出することを容易にした。』→『子どもに対して否定的なことは言えない社会だった。』

確かにこの通りだと思った。けど、前にK岡さんと話したんだけど、虐待って当然な部分って結構あるとオレは思う。「元カレ」とか「元カノ」とかっていう言葉があるように、好きな人の過去は知りたいけどイヤなものだと思う。「付き合う」ていうことにさえ、それくらいの重さがあるんだから、「結婚」にはなおさらでしょ?「前の夫との子ども」とか否定したくなるのって当たり前な気もする。(だからって虐待を肯定してるわけじゃない)K岡さんには「責任の意識が足りてない」って言われたけど、普通なら「前の夫の子どもでも愛があれば大丈夫!」って思わないかな?それでもやっちゃうんだから、オレは別の部分に理由を求めてもいいんじゃないかと思う。認識の甘さとか、恋愛に流されるとか。


人の目を気にすること [2001 千葉大学3年]

クラスに嫌いなヤツがいた。一人でオレを敵にするんならいいんだけど、そいつは上手に他人を巻き込んでオレを攻撃してた。あること無いこと言いふらしてみんなを自分の味方にしてオレを孤立させようとした。そっからかな。一人で生きることを選んだのは。同じ中学に進んで、同じ高校に行って。中学では同じクラスにならなかったのに、高校3年間のうちに2年も同じクラスだったのはナゼ??(笑)まぁ、他人との距離の取り方のおいての基準を作ったのは彼だってことは間違いない。コミュニケーションをテーマにするのも彼のお陰かも。人生においてのキーパーソンの一人だね。けど、絶対に会いたくない人の筆頭。
成績面。浪人するまで成績は上位で当然だと思ってた。もちろん東北大も合格するもんだと思ってた。(だから落ちたんだろうけど。)そういう面では前述の「縦の縦列」の上の方にいたんだろうと思う。さらに、これは両親の期待に応えていることだと思う面もあったし。優等生のきくちんだったんだろうね。けど、浪人してこの価値観は全て崩れて、自分のための勉強に変わった。もちろん今もそう。他人の評価は気になんない。そういう意味では自己満足なのかもしれないけど。

人の目を気にしなくなったよという一つの例。どうでしょう?
確か、大学では誰にも話したことのないかも。貴重な書き込みでした。


メール下さい [2001 千葉大学3年]

『親子ストレス』

 東京オリンピックより後に生まれた世代は、「日本の歴史上初めて、子どもの頃、異年齢で自由に遊びほうけたという体験をあまり持てなくなってしまった」世代であり、「学歴をめぐる競争である程度の地位につくことが将来のための最大課題であるという社会的雰囲気の中で」「小さい頃から、自由に自分の人生を探しなさいと励まされるのではなく、すでに敷かれた上昇階段に早く乗ること、できるだけ上まで上がり続けること」を期待されて育ってきた世代ということになる。
 彼らは、幼い頃から同質的集団の中に身を置き、そこで「縦の序列化」を強いられてきたわけである。人間には様々な違いがあって当然という「異質への許容性」を訓練される機会に乏しいため、少しでも違和感をかもし出す対象があれば、容赦なく「排除=追い出し」しようとするのである。追い出すという行為は「内部の緊張感と凝集性」を高めるため、何度もくり返されることになる。これが「いらいらした集団的ムード」の中で行われると「いじめ」となるわけである。
 そのため、内部のメンバーは誰もが排除されることを怖れ、いつも「みんな」(漠然とした共通の行動規範)にあわせることを無意識のうちに「生活の流儀」とせざるを得なくなるのである。彼らは、「他者のまなざし、特に同質の仲間のまなざしが大変気になってしまう」ために、他者との距離をどうとるかに過剰な気遣いをし続けているといえよう。


スキーに行っても。 [2001 千葉大学3年]

『心的外傷と回復』

ある友だちには話したことがあるんだけど、「トラウマ」ってベトナム戦争の後遺症としてメジャーになったっていうのは有名な話。だけど、戦争って言うのは数千年前からあるわけで、アレクサンダーが遠征した時とかから「トラウマ」で悩んでいた人がいたって不思議じゃないと思う。もちろん、関ヶ原とかでも同じだけど。本文中には『心的外傷の調査は政治的な動きに伴って盛んとなった』とある。そしたら、単純に考えて昔は「戦争なんておかしい」って言えなかったってことなのか?当たり前か。けど、例えば交通事故とかで間違って殺しちゃったこととかは「トラウマ」とは言わないのか?これは政治には全く関係ないし。まだ全部読んでないから後でアホだと自分で思うかもしれないけど、とりあえず疑問を記しておきます。
 


きくちんな日々 オープン [2001 千葉大学3年]

きくちんな日々(さるさる日記版)がオープンしました 。


桜庭さんと話したこと [2001 千葉大学3年]

インターネットの匿名性とメタ言語について。

インターネットでは人の顔を見ないコミュニケーションが普通である。(カメラでとったやつを添付で送ったりするけど。)人の顔を見ないコミュニケーションは例えば「手紙」とか「電話」とかもある。確かに、最近ネット社会だからって急にインターネットだけを問題視するのはおかしいのかもしれないけど、すべてがメールその他の文章で終わってしまう社会もつまらないとオレは思う。手紙なら筆跡があるし、電話なら声がある。けど、ネットはどのパソコンでもフォント程度の差しかない。それで何を伝えるか?文字どおり「文字」だけ?そんなコミュニケーションつまんなくないですか?特に、教育の場ではメタ的なものが大事だと思うし。みなさんはどう考えますか?


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