SSブログ

今日考えたこと。英語を教える背景文化として。 [2014 教員12年目(現職派遣・修士1年目)]

今日の講義は面白かった。
こういう視点は全く持っていなかったから、英語を教える身として頭に入れておかないとダメだなと思った。

1:外人の先生(奥さん日本人、子ども3人)が、いつもと違う遠くの大きな公園に行った。
そしたら、周りのちびっこたちが先生に「あーガイジンだ、ハローハロー」と連発した。
近くの公園なら、みんな顔見知りだからそんなことは無い。
先生も日本語はかなり分かるから、正直うんざりしたけど、適当に相手をした。
そしたら、今度は子どもさんたちに向かって「ハーフ!ハーフ!」が始まった。
一番上のお兄ちゃんは見た目がほぼ日本人だから聞かないふりができるんだけど、2番目の女の子は先生に似てブロンドだから、どうみても「ハーフ」。
でも、彼女は日本で生まれ育っているから「ハーフ」と呼ばれることをかなり嫌がる。
せっかく公園に行ったのに。先生は「うちの子たちは『日本人』だと思う」と。

1.5:先生も、見た目ガイジンぽい大学生に「どこの国から?」と聞いたことがある
その生徒さんも、「ハーフ」だけど生まれも育ちも日本。
その生徒さんは堂々と「日本人です」と答えた。
私も同じ事をしているんだよ。先生は笑って言った。

【個人的考察】
まず、日本人だと言ってもらえることが嬉しいと感じた。
子どもたちが半端に英語を習っているから使いたくなる気持ちも分かる(というか、物怖じせずに話しかけていることは評価すべきなのかもしれない)。でも、とにかく話しかければいいという訳ではない。その人たちの生活背景もあるし、ただ休日に遊びに来ているだけなのに「ガイジン」扱いされて騒がれてはたまったものじゃない。

この話を聞いた時に、小学校英語の功罪となのかも思ってしまった。小学校に限定する理由も無いか。「やべ、ガイジン来たぞ」じゃなく、どうにか声をかけようとする態度は評価できると思う。昔の日本から見たら相当な進歩なのだろう。その一方で、英語をただ教えるだけで、英語を使って『会話』をするにあたって大事なこと(会話のマナーというか、「日本人らしい」相手を思いやる気持ちをもった上での英語でのコミュニケーションというか。)を教えていないこと示しているのではないか。英語は非常に有用なツールであることは間違いない。でも、使い方を知らないのに道具を使うことがあるだろうか。日本語だったら、「今ここでこれを言ったら」って考えるはずでしょ。子どもでも。英語英語言われるけど、欠けちゃダメなことは日本語だろうが英語だろうが関係無いはず。

「『英語』を『教える』」ってどういうことなのか、もう一度考えないとダメだなと痛感しました。大事なことに気づかされました。
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。